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序/大介・修介
「どうして…こんな、ことに…」
薄暗い地下の一室で、あどけない少年の絶望の声がこだまする。
その瞳からはすっかり光が失われ、ふいに大粒の涙が零れ落ちるのみ。
今は一歩も外へ出ようとせず、一日中こうして閉じこもっている。
自らを守るように身を抱き、休む暇なく襲いかかる孤独と恐怖に、ただ震えることしかできない。
その部屋は、周りからは安置部屋と呼ばれており、その名の通り数日前まではここにも人間の遺体があった。
遺体…いや正確には当時の若さをそのままに保った死蝋で、それは…少年の実母だった。
母は少年が生まれたと同時に殺されていた。故に、母のことはデータとしての知識しかない。
日本の天皇家とも親交のある名家、青蓮院。その一人娘で、名前は麗華。
長く手入れの行き届いた黒髪に、肌は雪のように白く、月下の花をあしらった鮮やかな青の着物が似合う、可憐な美女。
生前の性格は、「気が強い女」だったとだけ聞いた。
麗華には親同士が決めた婚約者もいた。
互いに一目惚れで、十八の誕生日に祝言を挙げることも決め…麗華自身、その日をとても楽しみにしていたそうだ。
しかし、それも無となった。肝心の花嫁が、忽然と失踪してしまったのだ。
その事件は俗世を驚かせたが、詳しいことは今でもわかっていない。麗華の居場所も、安否さえも。
いつしか麗華は神隠しとして片付けられ、人々の記憶の中から消えていった。
だが少年だけは、それが神隠しでも何でもないことを知っていた。
…父だ。全ての発端はそんな風に呼びたくもない、ある男のせいなのだ。
男はマフィアというものらしい。それも表の世界では死んだとされている。
麗華は男に目を付けられ、拉致されていた。そしてあまりにも理不尽な身体的、精神的暴行を加えられ…。
…その結果出来たのが少年だ。少年は、望まれて生まれてきた子供ではなかった。
男は日本人形が好きで、趣味で集めているほどだ。死蝋になることで、麗華もそのコレクションに加わったのだ。
男とは「同居している」というより、どこにも行けないよう「監禁されている」といった方が正しい。
そこに家族の形や愛など、ありはしなかった。
戸籍もない、名乗る名前さえない、ましてや友人などいるはずもない。
しかし少年は、死してなお美しい気品溢れる母、麗華が好きだった。
麗華の棺に寄り添っていると、心が安らいだ。このおぞましい環境に生きている自分を、あの男の血が流れる事実を、ほんの僅かでも忘れられた。
少年は幼い頃からこの部屋に通い、眠りを覚ますことない母へ言葉を掛けることが日課になっていた。
無意味なことではない。それは、少年が心の平穏を保つための行動なのだから。
だがそれも、長くは続かなかった。
数日前、突然部屋に黒服の屈強な男達が入ってきたかと思うと、あろうことか麗華の棺を運び出して行ってしまったのだ。
必死に止めようとした少年はその黒服達、男の部下に気絶させられ、意識を取り戻した頃には麗華はこの世のどこにもいなくなっていた。
こんな理不尽な暴力、まるで母と同じ扱いだ。
「は、は……あは……ふひひっ」
少年は今もまた、乾いた笑い声しか出なくなった自身の心が崩壊する感覚を、生々しく感じていた。

ふと鳴り響いた重い扉が開く音に、少年はハッと顔を上げる。
誰でもいいから、助けて出して欲しかった。
この底知れぬ失意から。歪んだ家庭から。それだけだというのに。
「っ…ひ…ぃっ…!!」
悪魔が来た、と少年は思った。そして怯えを隠せなかった。
少年の目の前に立っていたのは、忌々しい男と…そして自分と…瓜二つの顔を持った少年。
彼は、少年の双子の弟であった。
元々は優しかった。兄弟仲も悪くなかった、はずだ。その弟が、今は怖くてたまらない。
そして少年――兄は気付く。同じ顔をした弟が、数日前まで麗華がいた場所で項垂れる己を、感情のないガラス球のような瞳で見下ろしていることに。
「…そ、んな、眼で…み…るな…っ」
か細く上擦った言葉は、なんとか声になった。
その声すら聞こえていないとでもいうように、弟はずかずかと兄に歩み寄る。
「邪魔だ」
それだけ言って、弟は痛いほどの力で兄の腕を掴んだ。
無理やり立たせようとしている。ここから出て行けということか。
「どう…して…」
咄嗟に、弟の手を振り払う。
「どう…して、母様を…お前も、好きだったんじゃ…ないのか…?なのに…何でこんな、ひどいことを…」
弟はとても頭が良くて、気が利いて、そして自分と同じで母想いの人間だと思っていた。あの男とは違うと信じていた。
それなのに現実は、あまりにも残酷なもので…。
麗華を火葬しろと命令を出したのは紛れもない、麗華に飽いた男ではなく弟だった。
それでもまだ、兄は心のどこかで弟に微かな希望を抱いていた。
全て嘘だと言ってくれたら。仕方なかったのだと言ってくれたら。あの男に脅されたのだと、せめて、せめてそう言ってくれたら。
そうでなければ、何もかもおかしくなってしまいそうだった。
弟は、感情の変化に乏しい目を僅かに細める。
「お前には一生掛かっても理解できないだろう」
一瞬、弟の口角が上がる。冷たい声。刃物のように鋭い瞳が、胸を抉る。
弟の狂気に、蝕まれる。募らせ続けた負の感情は、遂に兄を支配した。
「ふ…ざけるな!!裏切り者っ!!俺の母様を返せ、返せよ…!!うあぁぁああああっ!!!!」
兄は堰を切ったように叫びだした。
地獄の業火とも思わせる激情を滾らせた眼で、兄は弟を睨む。
「お前のせいだ!!全部お前が悪いんだ!!いつか、いつか…俺がこの手で殺してやるっ…!!!」
──その男に関わった者は皆、堕落と破滅の道を歩む。
兄はそんな悪魔のような弟の、最初の贄であった。
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